ショスタコーヴィチ「祝典序曲」

1947年にロシア革命30周年記念行事用に作曲されたそうです。音の隙間から人々の歓喜が聞こえる気がします!そしてショスタコーヴィチならではの洗練されたメロディーが際立ちます。

ショスタコーヴィチは今でこそロシア随一の天才作曲家として揺るぎない名声を得ていますが、時代の波に呑み込まれ、厳しい人生を歩んだようです。

その時代の波というのが「社会主義リアリズム(socialistic realism)」と呼ばれるものです。

芸術における社会主義リアリズムは、社会主義の崇拝するような、又、労働者階級に親しまれ、彼らの労働を鼓舞するような作品であるべきで、それがひいては社会主義国家ソ連の建設に資するとする思想です。

ロシア帝国時代も芸術への検閲は存在していたと考えられていますが、スターリンが政権を握っていた1924年~1953年においては、芸術家たちにより一層厳しい目が向けられました。スターリンは徹底的に芸術をソ連の国家建設の道具としてのみ存在するように仕向けようとしたのです。

若きショスタコーヴィチ(当時30歳)が最初に恐怖を味わったのは1936年スターリンがジダーノフなど幹部と連れ立ってボリショイ劇場で力作オペラ「マクベス夫人」を鑑賞したそうです。大静粛の時代(1936~38)とも重なっており、相当怖い体験となったようです。それ以降、表面上は政権を支持しながら作曲活動を継続することで、その実力は評価されるようになります。

1948年、党の幹部ジダーノフが、ショスタコーヴィチ作品の西洋的性格を指摘し、、セルゲイ・プロコフィエフアラム・ハチャトゥリアンと合わせて名指しで糾弾し、謝罪させた事件です。(この一連の出来事は「ジダーノフ批判」という歴史イベントの一つとして語られます。)

この事件により、ショスタコーヴィチは音楽院の教師としての職を失います。そして、1936年のオペラ批判の時と同じように、安全地帯とも言える映画音楽と国からの委託先品のみを引き受けるようになります。

翌年、幸いにもアメリカとの交流行事の参加者として白羽の矢が立ち、ショスタコーヴィチに対する批判の手は緩まります。ちなみに彼は、ニューヨークで用意されたスピーチ原稿を読み上げたそうです。ロシア革命の時にアメリカに移住した音楽家であるニコラス・ナボコフは操り人形のようなショスタコーヴィチの滑稽さをメディアを通じて批判し、ショスタコーヴィチを怒らせたそうです。

このようにショスタコーヴィチを苦しめた社会主義リアリズムの潮流は、スターリン政権の瓦解後も終わることはなく、フルシチョフ政権、ゴルバチョフ政権へと引き継がれ、1991年ソ連の崩壊まで続きました。

プロコフィエフは1917年ロシア革命の混乱を避けて一度アメリカに亡命し、20年の歳月を経て、ロシアに帰国していた。1948年時点では病床に伏していたため、ショスタコーヴィチほどは被害を被っていないと思われる。

ショスタコーヴィチの映画音楽「ワルツ第二番(ジャズ組曲 第2番より)」も是非↓

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