バルトーク「ルーマニア民族舞曲」

作曲家・ピアノ奏者としてのみならず、民族音楽研究家として精力的に活動したハンガリー(現ルーマニア)出身のバルトークとその楽曲「ルーマニア民族舞曲」を紹介します。

ハンガリー舞曲の作曲者であるヨハネス・ブラームスの音楽に触れ、民族音楽への関心を高めた若きバルトーク(1881~1945)は、17歳の時にウィーン音楽院への入学を許可されますが、入学を断り、ハンガリーの首都ブダペストにあるリスト・フェレンツ音楽院に入学し、民族音楽への造詣を深めます。

1905年には、パリでピアノコンクールに出場するものの、優勝できず悔しい思いをしますが、ドビュッシーの音楽と出会い、その後の作品に影響を与えます。

初期の作品では、ブラームスやストラヴァンスキーの影響が色濃かったそうです。

1907年の「ヴァイオリン協奏曲第一番」を皮切りに、民族音楽家としての本領を徐々に発揮し、1915年に「ルーマニア民族舞曲」作曲します。

ヴァイオリン協奏曲第一番↓

 

1940年、渡米した後、コロンビア大学でルーマニアや南スラブの民族音楽研究で名誉博士号を授与されます。そして、ニューヨークで最期を迎えます。

民族音楽を深く研究しており、ピアノの指導を行いましたが、作曲を教えることは拒んだそうです。