ラフマニノフ ピアノ協奏曲第三番

1909年にニューヨーク・カーネギーホールで演奏用に作曲されました。
40分に及ぶ大変長い曲ですが、どこを切り取れないような素晴らしさ!!

ラフマニノフは、軍人でアマチュアピアニストである父と裕福な軍人の娘である母の4番目の子供として1873年に生まれました。つまり、ピアノ協奏曲第三番を作曲したのは、36歳の時ということですね!

音楽への理解が厚い家庭に生まれたラフマニノフは幼児の頃よりサンクトペテルブルク音楽院の卒業生であるピアノ教師についてピアノの練習に励みます。そして、10歳で同音楽院に入学。

※サンクトペテルブルク音楽院:モスクワ音楽院設立前まで、ロシアの音楽教育を行っていた学校。著名な出身者にはチャイコフスキーやプロコフィエフがいる。

13歳から15歳にかけて、ニコライ・ズヴェーレフの弟子となります。ズヴェーレフは弟子のために、有名な音楽家たちを家に集めることがあり、ラフマニノフは憧れのチャイコフスキーとの面会も果たします。

ルビンシュタイン奨学金を得て、モスクワ音楽院に入り、19歳で卒業します。ピアノ協奏曲第一番はモスクワ音楽院在学中に作曲し、ピアニストである従兄に献呈されました。

ちなみに最も有名なピアノ協奏曲第二番を1901年に作曲および演奏しています。この曲は初演から熱烈に歓迎され、グリンカ賞を授与します。ラフマニノフの名前が世界に轟いた瞬間でした。

その後、1917年にロシア革命が勃発したため、ロシアを離れ、ヨーロッパ各国で演奏および作曲活動をします。この頃にアメリカ合衆国に拠点を移し、最期は再びロシアに足を踏み入れることはなく、サンフランシスコのビバリーヒルズで息を引き取ります。

ラフマニノフは祖国ロシアに対する思い入れが強い作曲家であったにも関わらず、ロシアで生涯で過ごせなかったのはなぜでしょうか。

ちなみにロシア革命前に生きた、チャイコフスキーは、ヨーロッパで放浪した時期もあったようですが、生涯を祖国ロシアで過ごすことができました

ラフマニノフはなぜ祖国ロシアを離れなければならなかったのか、という観点から、ロシア革命について調べました!

1917年に起こったロシア革命(ここではロシア革命の序盤の「二月革命」のこと)とは、労働者階級が火付け役となり、兵士と共に食糧不足の解消とドイツとの講和を求めて武力行使に走り、専制政治を打倒した事件のことです

ラフマニノフ一家は貴族の身分で、家庭教師も雇われていたのと比較して、農民や兵士は「パンと平和」を求めていたことから、両者の生活は似ても似つかないものであったことがわかります

あくまでも想像ですが、革命の攻撃対象は、直接的には王家であり、貴族ではなかったとはいえ、当時のロシア社会の中では貴族は上流階級にあたります。貴族は、下層の農民や兵士が暴動を起こしている中、決して居心地が良い立場ではなかったのだと思いました

☞まとめ
ラフマニノフはロシアが育んだ偉大な作曲家であるが、貴族出身であったことで、ロシアを離れなければなりませんでした
祖国を離れたことは不本意でしたが、アメリカでは演奏活動を通してアメリカ社会の発展に貢献しました!brilliant!

最後にラフマニノフのキャラクターを特徴づける話を書きたいと思います。普段は寡黙なラフマニノフも笑って楽しんでいた娯楽にアネクドートがあるそうです。

日本語でアネクドートという言葉は、大抵「ロシアの政治風刺」(英:Russian joke)という意味ですが、英語でanecdoteという場合、逸話(「興味深い過去の出来事」の意味で、ロシアとは無縁なのです。

英語でこの言葉を学んだつるにとっては、新発見でした!