映画「オーケストラ!」からインスピレーションを受け、モスクワと関わりの深い音楽家について、改めて書きたいと思いました♪
映画「オーケストラ!」についてはこちら↓
今回はモスクワの国立アカデミー・ボリショイ劇場と関係の深い三人の音楽家の足跡を追いたいと思います。
⓵ピュートル・チャイコフスキー(1840~1893)
<チャイコフスキーの生い立ち>
軍の高官の家に生まれ、音楽を学ぶすべがなく公務員として就職した後に音楽家への転身を目指し、1861年にサンクトペテルブルク音楽院の前身にあたる音楽学校に入り初めて音楽を学びます。(有名なモスクワ音楽院は1866年設立なので当時ない)
<チャイコフスキーとボリショイ劇場>
1887年チャイコフスキーは自身が作曲したオペラ「チェレヴィチキ」をモスクワのボリショイ劇場で指揮します。実は、これはロシア皇帝アレクサンドル三世がチャイコフスキーに依頼した仕事でした。
実はオペラ発表3年前の1884年、チャイコフスキーは「最後のロシア皇帝」二コラ二世の父であるアレクサンドル三世から名誉ある賞および生涯年金保障を与えられていました。この仕事は何があっても優先されるべき仕事だったということは想像に難くないですね。また、当時ボリショイ劇場は宮廷が運営する劇場の一つ。ボリショイ劇場の仕事を引き受けることは、皇帝の恩に報いることであり、それが当時の彼の生きがいとなったのでしょう。
⓶セルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943)Sergei Rachmaninoff
<生い立ち>
祖父はアマチュアのピアニスト、従兄もピアニストという音楽的教育環境には恵まれていたラフマニノフは幼いころよりピアノのレッスンを受け、ニコライ・ズヴェーレフに師事した後、モスクワ音楽院を卒業します。27歳頃に作曲したピアノ協奏曲第二番で大ブレークする。
<セルゲイ・ラフマニノフとボリショイ劇場>
1892年、モスクワ大学院の卒業作品として、プーシキンの悲劇的な物語を基にしたオペラ「アレコ」を作曲します。これがチャイコフスキーの目に留まり、翌年、ボリショイ劇場で上演されることとなったのです。あまり有名なオペラではないのですが、チャイコフスキーからの人望があったからこそ生まれたボリショイ劇場との縁だったそうです。ちなみに、ラフマニノフはニコライ・ズヴェーレフの弟子時代、既にチャイコフスキーと会っており、ピアノの実力を高く評価されていたようです。
③フョードル・シャリアピン(1873~1938) Feodor Chaliapin
<シャリアピンの生い立ち>
バス歌手。モスクワから東に800km、ロシア連邦タタールスタン共和国の貧しい家に生まれます。東ヨーロッパの国・ジョージアで有名な歌手から歌のレッスンを受け、1894年、当時のロシア連邦の首都・サンクトべテルブルクで歌手デビューします。
★シャリアピンとラフマニノフとの出会い★
1896年頃、シャリアピンは、劇場の副指揮者であったセルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943)とも会っており、ラフマニノフは、シャリアピンに楽譜の全パートを通しての分析方法を、シャリアピンはラフマニノフに曲のクライマックス周辺のアプローチ方法を説いたそうです。2人は同い年ですが、ラフマニノフは音楽一家の生まれでロシアが誇るモスクワ音楽院出身、一方でシャリアピンは小作農の家の生まれで歌手の家に寄宿して音楽を学んだ身ですから、どちらかが優れているというわけではもちろんなく、音楽に対する意識や学んだ内容に関して壁があったんだと容易に想像できます。そして二人は生涯の友情を育みます。
<シャリアピンとボリショイ劇場>
1899年からモスクワのボリショイ劇場の舞台に立ち始め、第一次世界大戦がはじまる1914年まで活躍します。15年もボリショイ劇場で歌ったのだから、相当なボリショイマスターでしょう。1904年から1905年には、友人ラフマニノフも指揮者として共に働いていたはずです※下記参照。ボリショイ劇場活躍後のシャリアピンについては、あまり詳しくわかりませんが、ロシア革命後の不安定な国内情勢の煽りで財産の没収などの仕打ちを受け、フランスやイギリスに拠点を移したようです。
※ラフマニノフはボリショイ劇場の指揮者の地位を1905年に捨てます。ロシアの国内情勢の不安定化で賃金アップを求める音楽家などがおり、音楽に向き合う環境として不適当だったためです。辞職後、彼は家族と共にモスクワを離れ、ドレスデンに3年ほど滞在、そして1910年にはボストン管弦楽団と共演します。この頃、ピアノ協奏曲第三番をニューヨークのカーネギーホールで初演を行います。
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☞感想
チャイコフスキーはボリショイ劇場で働くことで、皇帝の恩に報いようとしていた一方、シャリアピンとラフマニノフは音楽的関心ゆえに、または、活躍の場として利用していた。特にラフマニノフは、幼少期からの音楽教育や育ちの良さの影響か、高い地位への失着がなく、作曲への関心を貫き通していたことが伺える。
余談:シャリアピンについては、最晩年の1936年に来日したことがきっかけで、「シャリピンステーキ」という料理が生まれたことはお馴染みです。
google検索「フョードル・シャリアピン」14,700件に対して、「シャリアピン・ステーキ」が170,000件でした。う~ん、やっぱり、つるの関心事と一般的な関心事がかなりずれていることが分かります!