オーストリアとナポリのオペラ(1731~1770)

2019年4月30日(火)本日は、平成最後の日!

セール中だった納豆をまとめ買いして落ち着いたので、一昨日借りてきた「イタリア・オペラ史」を読みました。

本日は以下の章を読みました。
5.メタスタージオの時代(1731~1770)

イタリア出身のメタスタージオは1729年にハプスブルク家の皇室詩人に指名され、数多くのオペラの台本を書いた、詩の才能に溢れた台本作家です。

彼の功績として、オーストリアのウィーンにおけるオペラの台本の形式化、が挙げられます。以下がその内容です
・オペラを3幕に分け、各幕における場面の数を均等にした。
・登場人物は6~7人。異なる社会階層の登場人物を登場させ、その中でも主人公は高貴な身分の者になるようにした。
・テキストには、必ず音楽をつけた。
・24時間以内の範囲で、同一場所で、一貫した筋書きで展開された。
・ドラマの革新を主要登場人物の道徳的葛藤とした。
・最初の2幕の最後の場面に、主要登場人物を登場させ、再終幕の最後の場面は合唱や重唱※で締め括った。
※重唱とは、フランス語でアンサンブルと言い、1人1パートを受け持ち複数の人数で歌うことで、合唱との違いは、重唱が1人1パートなのに対して、合唱が1人複数パート持つ。
・レチタティーヴォ※は感情の開示の役割、アリアはレチタティーヴォで開示された感情をクローズアップする役割を果たすよう役割を決めた。
※レチタティーヴォは、話すような独唱のこと。アリアは、旋律的な独唱のこと。
・隠喩や直喩を使用し、音楽にのせた感情表現を容易にした。(イタリア語でシーミレ・アリア、英語でメタファー・アリアと言う。)
・役柄の重要度や歌手の余烈によって、舞台の立ち位置が自動的に決められた。

観客に受け入れられる形が分かったら、それを形式化してしまったほうが効率がいいですよね~(^^)

さて、このようにオペラの形式化に成功したメタスタージオですが、その内容のほぼ全部が、統治者の徳を賛美するような内容で、画一的すぎた、という問題もありました。

所変わって、イタリアのナポリでは、オペラ・ブッファが流行ります。オペラ・ブッファはオペラ・セリアと対になる言葉で、オペラ・セリアが高貴な登場人物とシリアスな内容が特徴であるとすると、オペラ・ブッファはその逆で、滑稽な登場人物と一般市民の日常的な事柄が扱われました。

オペラ・ブッファ流行の背景として、1707年に、ナポリの支配がスペインからオーストリアに変わり、大衆に対する文化的な規制が緩くなったことが大きいそうです。

その後、1734年に戦争で再びスペインの手に落ちたことにより、ナポリでは、オペラ衰退の兆しが見えてきました。主な原因は、大衆側ではなく、国王にあったそうです。本来、国王は文化を保護しなくてはいけないのですが、教養がなく、オペラを観劇しても第一幕までしか集中力が続かず、そのまま帰ってしまったり、大衆の席に向かって手掴みしたマカロニを投げこんだりしていたそうです。

そんなこんなで1770年以降のイタリア古典期のナポリでは、イタリア最大の人口を抱えながらも、教養のある国王を欠いたことにより文化的に衰退の一途をたどったのでしたとさ!もったいない!

しかし、ナポリ発のオペラ・ブッファはヨーロッパ各地に広まり、フランスではオッフェンバックが「地獄のオルフェ」(1858)を発表。オペラ・ブッファ時代の頂点として広く知られるようになりました。

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喜劇の時代 18~19cナポリ&ヨーロッパ諸国