シューマン作曲(歌曲)/リスト編曲(ピアノ曲)『献呈』

理想的・ロマンチストなどと言われるロベルト・シューマン(1810-1856)は、元々ピアニストを目指していましたが、指を痛めたために、作曲家としての道を歩みました。一方で、音楽評論家としても活躍しており、自ら立ち上げた音楽専門の出版社を通して、若手作曲家を紹介し、クラシック音楽界に新たな光✨をもたらします。

↓↓歌曲『献呈』は、シューマンが結婚前夜に妻クララへ贈った愛にあふれる曲です。↓↓

ショパン(1810-1849)やブラームス(1833-1897)の名前をドイツ中に広めたのもシューマンです。

ショパンは、音楽家の誰もがそうしたように、ウィーン入りしたものの、ワルツ全盛時代のウィーンになじめず、パリでサロン演奏家として人気を得ていましたが、サロンというだけあって、基本的に少数の人の前で演奏することしかなかったため、シューマンの熱烈な激賞(『諸君脱帽したまえ。ここに天才がいる』)がなければ、ヨーロッパ中にその名が知られることはなかったと考えられます。

ブラームスはシューマンの23歳年下で、シューマンが43歳・ブラームスが20歳の時に出会い、衣食住を用意する、自身の出版物でブラームスを紹介するなど、まるで父子の様な関係になります。ブラームスがシューマンを訪ねた時に、シューマンは天才ピアニストのクララと結婚しており、ブラームスはクララとも親しく交流しました。

こちらの動画に触発され、いつの日か、つるもドイツのストリート・ピアノで弾きたいと夢見ております~♪
石井さん、ありがとうございます!!

また、シューマンが活動拠点にしたのが、当時、音楽と文学が最も発展していたライプツィヒです。
バッハゆかりのトーマス教会があり、フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽・演劇大学(1843年創設のドイツで最も古い音楽学校)が現存する町で、クラシック音楽の古都とでも言えるのではないかと思います。

追記:ライプツィヒ・ノーテンシュプア(Leipziger Notenspur)という音楽ゆかりの場所を巡ることができる散策路があるそう。観光者が迷わず歩けるように、道路上に(解かれたリボンのような?)プレートが埋め込まれているとのこと。

フェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847)は、シューマンの良き友人であり、メンデルスゾーンが上記の音楽学校を設立した際には、シューマンがピアノ教師となることを快諾したようです。メンデルスゾーンがシューマンと似ている点は、文学の才能があったことや、26歳の時にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に就任して以来、最期までライプツィヒを拠点に音楽活動を行っていたことです。

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<<『献呈』の編曲者であるフランツ・リストについて>>

ある時、リストがシューマンに会いにライプツィヒを訪れた際のやり取りが、非常に印象的です。※

リストここには伯爵夫人もいなければ王女もいない
シューマンこの町の貴族は150件の書店と、50軒の印刷所、30の定期刊行物だ

※参考文献:野田浩資『音楽家の食卓』

フランツ・リスト(1811~1886)は、ピアノの魔術師と言われるほど、難曲を弾きこなしたうえに、女性からモテたので、現代風に言えばアイドルのような存在でした。また、自分自身を天才と思っていたようで『天才は社会の役に立たねばならない』が口癖だったそうです。それゆえ、シューマンのリストの人柄に対する印象は良いものではなかったそうです。それでも、リストの才能は真摯に受け止め、交流を行っていましたとさ☆彡

リストは、ピアノ演奏と作曲、そして編曲を多く行った多才な作曲家です。ハンガリー生まれのリストですが、10歳からウィーンで研鑽を積み、11歳の時にウィーンで開いたコンサートでは、ベートーヴェンに絶賛されているようです。

交通手段が乏しかった時代に、馬車でヨーロッパ中を巡り、精力的に演奏活動を行っており、東西ヨーロッパの国々だけでなく、ロシアでも演奏をしたというので、凄いエネルギーです!

また、当時まだ無名だったチェコ出身の作曲家スメタナ(1824~1884)を音楽仲間や知人に紹介したそうです。
スメタナ作曲の「モルダウ」のファンなので、個人的に、うれしいお話♪