夜想曲にも見られる、見たたものをそのまま音で表現する、という彼の信念がよく表れていると思います。なんと、楽譜の表紙には、本人が浮世絵「富嶽三十六景」を採用したそうです。
少年時代に南仏カンヌに滞在したことがあり、海に魅了されたとされるドビュッシー。
成長してからも、イギリス海峡を臨むフランス北部の海岸、プールヴィル(Pourville -sur-Mer)で過ごす習慣があったようです。※画家クロード・モネの油絵に度々登場する場所でもあります。
※参考文献:青柳いづみこ ドビュッシー最後の1年 https://webfrance.hakusuisha.co.jp/posts/124)
8:55~あたりの海の壮大さを思わせる力強い演奏が印象的です↓
ピアノ曲「夜想曲」に引き続き、ドビュッシーらしさを感じられる本作品は、ドビュッシーが41~43歳の時の作品で、「夜想曲」の約10年後、に書かれました。この時期は、20代で早咲き作曲家としてデビューしたドビュッシーの第二の活躍期にあたります。
ドビュッシーの「夜想曲」はこちら↓
ところで、ドビュッシーは作曲の数年前の1889年、パリ万博に参加しています。その時にバリのガムラン音楽に刺激を受けたとされたことは以前にも紹介しましたが、19世紀後半と言えば、ジャポニズがヨーロッパで大流行していたことを踏まえると、彼も、この万博で日本の文化・伝統への関心を持ち、「富嶽三十六景」を楽譜の表紙に採用した、と考えられます。
ちなみに、万博(国際博覧会・万国博覧会)は、その昔(1851年)フランスの提案で始まり、しばらくは、パリで開催されることが多かったようです。
また、幼少期のドビュッシーは、裕福でも音楽一家に生まれたたわけでは無いにも関わらず、周囲の援助に恵まれ、早期から音楽の教育を受けるなど、教育環境にも恵まれました。、
生涯を通して、作曲を精力的にこなしたドビュッシーの原点は、少年時代と青年時代にたくさん詰まっていたようです。
パリ万博とドビュッシーに関する、こちらの記事もどうぞ↓