フィガロの結婚の台本作家ロレンツォ・ダ・ポンテ

今日は、モーツァルトとペアを組んで「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」の台本を書いたことで知られる、ロレンツォ・ダ・ポンテという台本作家を紹介します。

「フィガロの結婚」は、非常にコミカルな内容となっています。これはモーツァルト自身がフィガロの結婚の原作にあたるストーリを読み、オペラ化の着想を得た時から望んでいた方向性でした。

しかしオペラの台本を書いたのは、もちろんモーツァルト本人ではなく、台本作家です。
(オペラ作曲は台本作家が書いた台本を基に作曲を行います。)

ダ・ポンテは、イタリアで聖職者として働いていましたが、やがて、メタスタージオの後継者としてウィーン(神聖ローマ帝国)の宮廷歌劇場付き台本作家の地位を得ました。

メタスタージオについては以下にも書きました↓

オーストリアとナポリのオペラ(1731~1770)

宮廷歌劇場付き台本作家とはいえ、台本は発表される前に皇帝(当時・ヨーゼフ2世)の許可を得る必要がありました。

実は皇帝ヨーゼフ2世は、喜劇「フィガロの結婚」について、ドイツの劇団に対して演劇禁止令を出していたのです。このことを鑑みると、神聖ローマ帝国内(現在のオーストリア・チェコ)での発表は諦め、ロンドンやフランスなどで上演を許可してもらうことが妥当な判断だったと思われます。

しかし、オペラ「フィガロの結婚」の台本作家だったダ・ポンテは、タイミングを見計らってヨーゼフ2世(マリア・テレジアの息子・アリーアントワネットの兄にあたる)にウィーンでの上演を打診することを提案したそうです。結果は大成功!

フランス宮廷には、「フィガロの結婚」の原作者である、ボマルシェのファンが多かったらしく、喜劇「フィガロの結婚」の上演が認められ、1784年、モーツァルトのオペラ上演に先んじて、上演されていました。

「フィガロの結婚」の初演は1786年5月1日、ウィーンのミヒャエルン広場にあった旧ブルク劇場で行われました。この時、モーツァルトはチェンバロを弾きながら指揮をしたそうです。

ダ・ポンテの台本はイタリア語ですが、観客には、原本とドイツ語の翻訳本が配布されたそうです。

ウィーンでの初演は大成功とは言えないものでしたが、回数を重ねるごとに爆発的に人気になります!特にチェコの首都プラハでは熱狂的な人気作品となります。これがきっかけで、チェコの劇場から次作の講演を申し込まれ、ドン・ジョバンニが1787年10月29日にウィーンに先立って上演されます。

ところで、ダ・ポンテが、なぜこのような策を打ち出したかについて、【音楽之友社 名作オペラブックス1番「フィガロの結婚」】では、ダ・ポンテのウィーンの宮廷歌劇場での権力欲によるものだと書かれています。

当時、ダ・ポンテにはジョヴァンニ・カスティというライバルがいました。カスティは、オペラ作曲家アントニオ・サリエリと組んで、オペラ台本を書いていました。ダ・ポンテはライバルに勝ち抜く策として、このような大胆な行動に出た可能性があります。

ダ・ポンテは、ヨーゼフ2世在任中は、成功を収めるものの、その後はライバルたちに人気を奪われ、はるかニューヨークに渡り、コロンビア大学でイタリア文学教授として勤たそうです。ライバル争いお疲れさまでした!

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最後に、チェコの劇場を紹介して終わります。いずれもプラハ市内にあります。
「スタヴォフスケー劇場」(エステート劇場)(1783~)
モーツァルトとダ・ポンテの「フィガロの結婚」が最初に最も成功を収めた支配層である裕福な階級のためのオペラ劇場ドイツ語が使用されました。ヨーロッパで現役のオペラハウスとしては最古のオペラハウスと言われています。

「国民劇場」(1881~)
フィガロの結婚初演の4年前、1782年に初演された「後宮からの逃走」が初演されました。上記のスタヴォフスケー劇場が地主階級のためのオペラ劇場であったのに対して、こちらは、大衆のための劇場として建設されました。建設にあたって、指導的な立場にあったのがチェコ出身の作曲家でモルダウの作曲家としても知られるスメタナで。チェコ国民の愛国心の高まりにより、チェコ全国から集められた寄付金によって建設されました。使用言語はチェコです。

 

チェコを代表する音楽家スメタナの記事はこちら↓

スメタナ 「わが祖国」第2曲(モルダウ)について