1838年に作曲されたポロネーズ(16世紀後半にポーランド宮廷で行われた行進に由来するとされる、荘重でゆったりとしたテンポで奏でられる舞曲、又はその形式)。
ショパンのノクターンやワルツなどとは一味違う、活気に満ち溢れた曲ですね!サロンの参加者もさぞ喜んだことでしょう👏
この作品からは、挫折を乗り越え、自信💪と希望🌱を得たショパンの精神的な余裕が感じ取れます。
ショパンは二十歳で大きな挫折を乗り越えます。
それは1830年から翌年に過ごしたウィーンで、演奏の機会が十分に得られなかったことです。(それまでのショパンは、幼少期からピアノ奏者として一目置かれていました。)
この挫折の背景にあるのがはポーランド独立運動です。
ショパンがちょうどウィーンへ行った頃、ポーランド立憲王国では、「11月蜂起」(1830)と呼ばれる歴史的なイベントがありました。
ここで、蜂起発生前のポーランド立憲王国の状況を説明します。
ポーランド立憲王国(1815~1867)は、1815年のウィーン会議によってロシア帝国との人的同君連合(2つの独立した国家が、共通の国王を持つこと)として誕生します。
最初は、ウィーン会議の決定通り、ロシア帝国とポーラン立憲王国は、人的同君連合としての国家運営を行っていました。
ところが、次第にロシア皇帝が、ウィーン会議で決めたはずの人的同君連合を無視するようになっていきます。例えば、1819年に、検閲を導入し、ポーランドにおける出版の自由を奪います。
その後、1821年には、「5月3日憲法」と呼ばれている(1791年制定・1792年廃止)世界で2番目の成文国民憲法を推進運動を担っていたフリーメイソンの活動を禁止しました。
こうして、ポーランドの愛国主義者たちの不満が募っていきます。
このような中で起こったのが、軍の陸軍士官学校の若い将校たちによる反乱である11月蜂起です。ちなみに、ロシア皇帝は、自身の弟を軍の司令官に任命し、ポーランドから軍事的な決定権を奪ったため、このような形で、愛国者たちの不満が吐き出されることになります。
1810年生まれのショパンは、ちょうど、上記の歴史的な流れの線上に生まれ育ったのですが、本人は、恵まれた家庭で育っていたため、おそらくポーランドの愛国主義者のことなど特に考えていなかったでしょうね。
ただ、1830年に、11月蜂起のために、ウィーンでポーランド批判が生まれ、自分の演奏活動に影響が出てしまったことで、改めて、ポーランドの歴史について考えを巡らせ、祖国への想いを確かにしたのではないかと思います。
そして、敢えてか、偶然かはともかく、ポーランド愛国者たちがかつて独立国となるうえで、切り札と捉えていたフランスへ旅立っていきます♪
♪ポーランド立憲王国(1815~1867)が成立する前、ポーランドは、ワルシャワ公国(1806~1813年)というナポレオン・ボナパルトが建国した衛星国として存在していました。ワルシャワ公国は事実上、フランスの領土ではあったものの、第三次ポーランド分割(1795年)によって領土を完全に失ってしまったポーランドの復活を希求する愛国者たちが描ける唯一の夢の国🌈🏰だったのです。
🌈まとめ🏰
ポーランドは1795年~1919年の間、実質的に自治権を失っていた時代があり、その間、愛国主義者たちが希望を捨てずにポーランドの独立を願い続けたこと、そして、このことで、ショパンが音楽の都ウィーンではなく、パリで才能を再び開花させることになったことが理解できました~♯♪♬ショパンがポーランド文化の象徴であるポロネーズを作曲したことは、後世の人々にポーランドの歴史に想いを馳せる機会を与えてくれる、という意味で大変価値のある作品だと思いました!!